文献・資料

目次
1.上前智祐の言葉
2.論評・寄稿文等

※本ページに掲載しているテキストは、原則として原文のまま掲載しています。
ただし、明らかな誤りと判断される箇所については、可読性の観点から修整しています。

1.上前智祐の言葉

「作品」(『今週の表紙』寄稿文)

「朝日ジャーナル」1964年9月27日号掲載(表紙に油彩採用)

【抜粋】
人は点の価値に気づかなかった。私は文学的要素を否定することによってまず点を打った。

「グタイと私」

「吉原治良と具体のその後展」図録掲載(兵庫県立近代美術館、1979年)

【抜粋】
扶養家族5人を抱えての、造船労働者の身で「具体」を続けてきた思い出はいろいろとあってつきない。

無題

「第1回ニードルアート展」図録掲載(ニードルアート展実行委員会主催、於 和歌山県立近代美術館、1987年)

【抜粋】
具体宣言に「精神を高めることは、物質を高き精神の場に導き入れることだ」と言う箇所がある。「具体」の頃の僕は、自己表現の材料としては、油絵具によることが多かったが、1973年頃からは、主として、糸と布を使用するようになった。

「今度の出版にあたって」

「現代美術 ― 僕の場合 ―」差込紙掲載(1988年発行)

【抜粋】
僕の頭には、強い劣等感と、確固たる優越感とが、気圧の様に流動している。そして、これ迄の経験によって培われてきた脳みそからは、酵素が発酵して、いろんなイメージ(イデアとも言うべきか)が次から次へと泡立っているのである。そして又、どんなコンピュータよりも、万能的に訓練されてきたこの10本の指は、脳から神経をへたイメージを、選ばれた素材に刻みつけるのである。この刻印されたものは、最早ただの物質ではなく、その時の作家(僕)の、呼吸する息のこめられた永久的不滅の僕の像(墓標)なのである。

「独りの行動と眼」

ギャラリー無有 小冊子「上前智祐」掲載(1992年発刊)

【抜粋】
描く方の制作も、書く方の執筆と共に毎日続いている。例えば1986年10月からは、特に「縫い」の大作にかかっているが、今では100-300号が一応50点以上仕上っている。殆ど未発表である。これらは売る目的ではない。社会生活における弱者が強く生きる執着であり最高の享楽でもある。

「上前日記」(1947年10月20日・27歳)

【抜粋】
ゴッホ君、永らく御無沙汰しているが如何、小生このころ朝晩めっきり寒くなったのと陽がみぢかいのとで絵がまったく描けない、それに日通の方が忙しいので絵に向けるエネルギーを日通に吸い取られてしまふのだ。せめて絵の描けないときはこうして君に手紙を書くことが楽しみの一つになっているのだよ。

「上前日記」(1947年11月16日・27歳)

【抜粋】
僕は働いて食はなければならないのだ。然し僕の生命は絵を描く事によって保たれるのだ。

「上前日記」(1993年6月17日・72歳)

【抜粋】
ひとは アクション、パフォーマンスのできなかったことを笑う が僕には具体よりずっと前に「とび出しナイフ」があった そしてそれを堪(耐)抜いてきた

2.論評・寄稿文等

「触覚性への志向」 木村重信

「集合と稠密のコスモロジー 上前智祐展」図録掲載(大阪府立現代美術センター、1999年)

【抜粋】
自然対象や内的観念を表現する絵画では、形式が重要視されるが、それに固執するのあまり、とかく作品から生命的内容を閉め出さざるを得なかった。そのような形式偏重の絵画にたいする反撥が、上前をして精神よりも物質を、ロゴスよりもパトスを、という方向に赴かしめ、マティエールの重視と、絵具→マッチ軸→布と糸というマティエールの拡大による、新しい作品創造に向かわしめたのである。

「上前智祐 その生涯と芸術/集合と稠密のコスモロジー」 中塚宏行

「集合と稠密のコスモロジー 上前智祐展」図録掲載(大阪府立現代美術センター、1999年)

【抜粋】
無数の筆のタッチによるテンテンの跡が 画面いっぱいにびっしりと描かれている。
膨大な量のマッチによる軸木の跡が 画面いっぱいにびっしりと撒かれている。
無数の縫い目というステッチのテンテンの跡が 画面いっぱいにぎっしりと埋まっている。
膨大な量のスクラッチの条線の跡が 画面いっぱいにぎっしりと塗られている。

「触覚的即物性への志向」 木村重信

「丹後の前衛 ~小牧源太郎・上前智祐展~」図録掲載(大宮ふれあい工房、2014年)

【抜粋】
絵画を静観の対象としてでなく、生命の表出と考える上前が、視覚よりも触覚に、「こと」よりも「もの」に重点を置くのは、当然の成行である。上前はいう。「土器のカケラ一つにしても、それは触覚的に実在的なもので、それは現在への無言のメッセージとして僕達の胸に迫るものがある」(個展案内状、1992年)。

「神戸の美術史と上前智祐:表層から実存へ」 濱下昌宏

「居留地の窓から」神戸外国人居留地研究会年報9 掲載(2014年)

【抜粋】
そもそも美とは何か、芸術とは何か、という基幹的主題の派生課題として、なぜ人は芸術に、その創作と鑑賞に熱中するのか、人はどうして芸術家になり、作品を制作したいと思うのか、という問いがある。上前について読解を進めながら、反芻したのはそのような問いである。そしてその問いは、神戸研究の美術的側面との関わりで、「モダニズム神戸」を取り巻く否定的要素、そのイメージの表層性、表象過剰性、偽善性、慰戯性、等々と対決し克服しうる可能性をもつのではないか。

「上前智祐にかんする覚書」 本江邦夫

「上前智祐展:テント線の軌跡」掲載

【抜粋】
そして、上前智祐の芸術の最大の強みは、それが彼の現実=労働とまさに分かちがたく結びつくことで、再現的な次元を遥かに超えたある種の普遍性、つまりT·S・エリオットの言う「客観的相関物」(Objective Correlative)あるいは若きグリーンバーグが夢想した、既成のものとはまったく無縁に芸術の中に「すでに与えられている.......もの」(something given)の域に到達していることなのだ。

「『上前日記1947-2010 上前智祐と具体』の出版にあたって」 中塚宏行

「上前日記 1947-2010 上前智祐と具体」掲載(2019年)

【抜粋】
細かい字でノートいっぱいに、びっしりと、ぎっしりと書き込まれたその日記は、上前智祐という人間そのものであり、ほぼその全人生が、本人によって詳細に記録され、綴られているといってよいであろう。また「日記」には、「具体美術協会」が成立する前後の事情や「野外展」をめぐる動き、師・吉原治良との詳細なやりとり、タピエ来日に関する詳細など、「具体」の活動の詳細と舞台裏、同時代の関西の美術界の様子などが、上前智祐の立場から語られており、「具体」を中心とした、同時代の関西の美術界を語る上でも第一級の資料となっているといえよう。

上前智祐『具体』解散後の展開(1973~2018)」 中塚宏行

「『美術/漂流』Ⅴ(第3巻)学芸員Nの軌跡 第3章 もうひとつの『具体』」掲載(2021年)

【抜粋】
オガクズやマッチの軸を固めて、盛り上げて、段ボール、桂の輪切り、牛乳パック、缶ビール、などをシンにして、壁土、石膏、漆喰などを混ぜて盛り上げ、油彩などで彩色したオブジェ作品を制作、それを上前は「モリアゲ」と呼んでいた。枯葉、エアーキャップを支持体にしたものもあり、オガクズは、作家仲間の椿崎に送ってもらっていた。軽井沢と銀座の展覧会では、両会場で、青く彩色されたモリアゲ作品(オブジェ)が出品されている。

「上前智祐の『縫い』とその芸術の本質」 中塚宏行

「上前智祐『縫い』作品リスト」掲載(2022年)

【抜粋】
そのとき、上前作品の技術的、表面的、形式的な側面は、一旦、脇に追いやられ、一瞬姿を消す。上前智祐という人間の生きているという息遣いと心(精神)が、そこ(作品=物質)に宿っているのかどうか、そこから伝わるのかどうかが、作品にとって最も重要な価値となる。上前のいう、「呼吸する息のこめられた永久不滅の自分の墓標」この墓標こそが、上前智祐の作品の核心部分であり、本質であると言えるのではなかろうか。

「寄稿文」 吉原治良

「具体ピナコテカでの個展リーフレット」掲載(1966年)

【抜粋】
私は且って具体グループが催した「新しい絵画世界展」に於ける上前智祐の作品を、タピエが最も注目すべき作品の一つとしてとりあげたことを思い出す。
はなばなしくはないが、まちがいのない足どりで彼は一歩一歩自分の路を進んでゆく。近年彼の絵はいちじるしく密度が加わってきた感じである。

「寄稿文」 嶋本昭三 

「具体ピナコテカでの個展リーフレット」掲載(1966年)

【抜粋】
かつて東京で具体展が開かれたとき具体メンバーのメンメンが新しい美術について盛んに論じ合い、ちよつと収しゆうがつかなくなつたときがあつた。そのとき今までだまつて聞いていた上前さんはブーツと一発お見まいした。ならび居た具体の猛者達もこの一発でこの論議の結論を見出したのである。社交や弁舌の多い現代美術界で不言実行の上前智祐こそ貴重な存在である。

「ウァッハッハ具体・3 ― 上前智祐―」 嶋本昭三

『未生』1974年3月号掲載 /『孤立の道』に転載(1995年)

【抜粋】
具体の運動はミシェルタビエの来日によって1958年頃より世界の美術界におどり出た。そして幾多の美術誌をにぎわした。とくに後半になって時流にうまくのれる連中も加わって、流行歌手が誕生するようなアッピールの仕方も出て来た。しかしぼくは、具体の本当の強さはこの逆のところより生れ、そしてそこに残るものであると信じている。身ぶりの大きい小さいはあっても根本は安易な受け方を拒否する人間と直結する何かを求めようとする精神は一致していたが、ややもすると誤解されていた。

「ウァッハッハ具体・4 ― 上前智祐―」 嶋本昭三

『未生』1974年4月号掲載 /『孤立の道』に転載(1995年)

【抜粋】
上前智祐、1920年に京都で生まれた。1才のとき父が亡くなり養父が炭焼きであったので山中でそだてられた。4才のとき耳を患い、そのため生涯難聴になった。6才のとき母親も病気になり天理教にこもってしまった。このとき奥丹後の大地震があり倒潰寸前に90才の巫女が彼を連れ出して奇跡的に助けられた。

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