折々の一作:第一回

上前智祐さんの版画に魅せられて

坂上 義太郎(BBプラザ美術館 名誉顧問)

「僕の頭には、強い劣等感と、確固たる優越感とが、気圧の様に流動している。そして、これ迄の経験によって培われてきた脳みそからは、酵素が発酵して、いろんなイメージ(イデアともいうべきか)が次から次へと泡立っているのである。そして又、どんなコンピュータよりも以上に、万能的に訓練されてきたこの10本の指は、脳から神経をへたイメージを、選ばれた素材に刻みつけるのである。この刻印されたものは、最早ただの物質ではなく、その時の作家(僕)の、呼吸する息のこめられた永久不滅の僕の像(墓標)なのである。」(『現代美術―僕の場合―』 上前智祐著 1988年発行)

 この文章からも窺えるように、上前さんは、絵画、立体や版画、糸と布を用いた「縫い」の作品などを世紀跨(また)げて制作し続けた実直な作家だ。上前さんは、1920年京都府に生まれ、戦前独学で南画を学び、後に洋画へ転じ、戦後吉原治良に師事。1954年、前衛的アーティスト集団として知られる「具体美術協会」結成に参加。1962年にはモダンアート協会会員となる。卒寿を超えても内外で活躍した稀有な作家だ。

 また、作品制作の傍ら『とび出しナイフ』(1976年)他、私家版による数冊の書籍を著し、「具体美術協会」との関わりや自身の生い立ちから川崎重工を経て神戸製鋼所への変遷、絵描き仲間のこと、制作への葛藤などを詳らかにしている。何れも興味深く、上前さんの作家人生が集約されている貴重な書籍群である。

 さて、私は2002年、当時神戸にあったギャラリー・サーカス・サーカスでの「上前智祐展」で1枚の版画を購入した。画廊で私の眼を釘付けにした色刷り銅版画(図版)だ。上前さんは、長年クレーンマンとして神戸で勤めながら制作にも励んでいた。その頃のことを造形大学と題し、次のように回顧している。
「(前略)神戸製鋼所のクレーンマンとして、そこの下請け会社の「島文」から勤めることになるのだが、ところがこの「神鋼」の構内全体が魔法都市であった。そしてまた、その部分の工場内外の活動組織が、異様な造形美の光景であった。毎日みていても、次々に新しい美意識にとりつかれていった」(『思い出 神戸の灘浜にて』 上前智祐著 2010年発行)

 この回顧談のように、私が持つ銅版画(2002年作)は、煮えくり返った鉄の流れの広がりを彷彿とさせてくれる。とともに、油絵のようなマチエールにも魅了される独創的な作品だ。上前さんがクレーンに乗り、その模様を造形化へと試みたのではないだろうか。
 上前さんの版画は、時には組み版画ともなり、色数を加えることで、色と色が重なる時の思わぬ効果を生み、多彩な表情を創出している。ちなみに、版画制作の契機となったのは、1980年頃に非具象研究のために数千枚の墨画を描いたことに始まったと述懐している。

 残念ながら上前さんは、2018年97歳で亡くなられた。最後に、私が忘れられない上前さんの詩を紹介することで拙文を終えたい。

 明日、核爆発で地球が破壊されるとも
 汗に汚れたタオルを首にかけて
 何の恥らいもなく
 道路工夫の様に永遠に向って
 燃えるこの火は誰も消すことはできまい
 肉体はどの様にも彷徨い
 その醜態を晒して朽ち果てるとも
 ここに 残すものとして
 一人で搔き分けて通った道を
 一本の線でなどった
  
 (『自画道』 上前智祐著 1985年発行)